特集・コラム
映画のとびら
2019年10月17日
アダムズ・アップル|映画のとびら #031【チケットプレゼントあり】
デンマークのアカデミー賞に相当するロバート賞において、作品賞、脚本賞、特殊効果/照明賞を受賞した人間ドラマ。とある田舎町を舞台に、元犯罪者と彼らの更正を任された神父の交流を描いている。主演は、米ドラマ『ハンニバル』(2013-2015)で国際的知名度を獲得し、今や「北欧の至宝」とまで称されるマッツ・ミケルセン。監督はミケルセン主演作品でキャリアを重ねているアナス・トマス・イェンセン。
一国を代表する映画賞の頂点を極めた作品だが、紋切り型の感動作とは少々、味わいを異にする。それどころか、さまざまな映画がひしめく2019年の日本公開外国映画にあって、指折りの「奇作」といっていい。ドラマが進むごとに予想と期待を裏切る展開の数々は驚きの連続であり、その折々の瞬間を新鮮に楽しみたいと思う向きは、これ以後の文章からも目を背けることを推奨しておく。何も読んではいけない。
物語は、刑務所から仮釈放されたスキンヘッドの男アダム(ウルリッヒ・トムセン)が更正プログラムの一環で受け入れ先の田舎町へ到着するところから始まる。無口でネオナチ。壁にヒトラーの肖像画を飾り、履歴書に「悪党」とまで書くほどの彼を出迎えたのは、神父のイヴァン(マッツ・ミケルセン)だった。「本物の悪人などいない」と言い切るイヴァンは一見、熱心な神の信奉者だが、どうも様子がおかしい。「教会での目標を自分で決めろ」と言う彼に、アダムは「じゃ、ケーキを焼く」といいかげんに返答する。これを聞いたイヴァンは怒るどころか、真面目な顔でアダムに庭のりんごの木の面倒を見ることを命じた。そして、そこから収穫したりんごでケーキを焼くように伝えるのである。
教会には、すでにカリド(アリ・カジム)、グナー(ニコラス・ブロ)というふたりの前科者が暮らしていた。カリドはガソリンスタンドを襲う強盗、太っちょのグナーはアルコール依存症で盗みやレイプの常習犯。イヴァンは「もう更正した」と言うが、カリドは今も気性が荒く、グナーは酒を飲み続け、アダムの部屋から携帯電話と財布を盗もうとする。イヴァンはイヴァンで、教会での説教中にトイレへ立つ老人に「トイレを使うなら病院のトイレを使え。戻ることも許さない」などと、聖職者にしてはあまりに手厳しい。無愛想で強面のネオナチ男がいちばん良心的な存在ではないか。そんな気分が徐々にそよぐ。
異常者ぞろいの話だから面白い? 確かに、イカれた集団によるイカれた騒動ではある。ヒトラーの肖像画を見て「あのハンサムな紳士は誰だ? 君の父親か?」と本気で尋ねる聖職者など、なかなかいない。
バイオレンス描写もある。流血もある。前掲の「交流」という言葉から連想される共感や同情のたぐいはほとんどなく、終始ドライで冷静な視点で貫かれているあたりが大きな特徴か。常識人からすれば不条理なブラック・コメディーだろう。ある種の狂気もはらんでいるあたり、さすがカール・ドライヤー、ラース・フォン・トリアー、スザンネ・ビアらを生んだ国デンマークならでは、である。そういえば、監督のイェンセンはビア作品の常連脚本家でもあった。ただし、一筋縄でいかない物語ではあっても、ねじ曲がった非常識を謳歌する作品ではない。実のところ、鑑賞回数をこなせばこなすほど、すべてが理にかなっているように映るから不思議だ。それは「正論」というより「正確」と呼ぶべきものかもしれない。どこか巨視的な、それこそ神ならばそう見えるかもしれない景色がやがて眼前に開けてくる。実に優れた脚本、演出。
強いて無茶を指摘するなら、山場で描かれる「ハーフ・ケネディ事件」とその結末だろう。これについても、個人的には今となっては何ら無理を感じないどころか、もはや痛快ですらあるのだが、そうではない観客には恐らく「奇跡」という言葉が適切なのだろう。「奇跡」というキーワードもドライヤー、トリアー的ではないか、との議論はさておき、題名の「アダムのりんご」に始まり、劇中に頻繁に顔を出す聖書の「ヨブ記」などにキリスト教的寓話を想起させるのも、この作品の魅力的な仕掛けである。仮にそれらが観客のための娯楽的な「逃げ道」に終わったとしても、この作品の独創的な輝きに変わりはない。神仏礼賛に直結する作品でもなければ、教条的な宗教映画でもないからだ。むしろ、その正反対としてもいい。
おそらく、大半の観客は呆気にとられて終わる映画。「なんだ、こりゃ」の連続。でも、ちょっと見方を変えれば、どこまでも鋭く、澄んだ世界がサラリと広がる物語。なんという得難い映画体験だろう。
この映画、もともと日本では2017年開催の北欧映画祭〈トーキョーノーザンライツフェスティバル〉で上映後、そのまま「死んで」いた作品。それを、この映画を愛する有志が上映権を買い、自ら配給を行い、正式な日本公開にこぎつけた。2005年に本国で劇場公開を終えていた作品は、野に埋もれることなく、鮮やかに地上に「復活」したのである。これこそいちばんの「奇跡」ではないか。
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◆ご応募はOPカードWEBサービスからエントリーしてください。
<応募期間:2019年10月17日(木)~20日(日)><応募終了>
※当選者の発表はチケットの発送をもってかえさせていただきます。(10月21日発送)
©2018 Arctic The Movie, LLC.
タイトル | 残された者 -北の極地- (原題:Arctic) |
製作年 | 2018年 |
製作国 | アイスランド |
上映時間 | 97分 |
配給 | キノフィルムズ |
監督・脚本 | ジョー・ペナ |
出演 | マッツ・ミケルセン、マリア・テルマ・サルマドッティ |
公式サイト | http://www.arctic-movie.jp/ |
かなうなら何も予備知識を入れずに鑑賞した方がいいという意味では、もうひとつのマッツ・ミケルセン主演作品も『アダムズ・アップル』と同じ部類に入るだろう。
その作品『残された者 -北の極地-』は、北極圏に墜落した飛行機乗務員のサバイバルを描く物語。これが長編デビュー作となった南米ブラジル出身のジョー・ペナが監督と脚本を兼ね、気温マイナス30℃の極寒の地アイスランドでオールロケーションを敢行している。
北極圏が舞台とはいえ、具体的に地域が特定されているわけではない。説明的な台詞もほとんどなく、途中で新たな女性遭難者が加わるまで、ほぼミケルセンひとりが登場するだけ。見渡せば、周囲は白い荒野。どこをどう歩いているかもわからず、墜落の詳細を描く回想シーンも登場しない。観客は、ただ目の前の映像を追い、マッツ・ミケルセン演じる主人公オボァガードの運命を目撃するのみなのだ。
必要最低限の映像で切り取られた物語は、一種の体感型スリラーの様相を呈しており、ミケルセンが見せる苦闘がわがごとのように迫ってくる。静寂が痛い。孤独が生々しい。ホッキョクグマの襲撃シーンなど、あらためてこの地の過酷が突きつけられる。恐怖以上の恐怖、寒さ以上の寒さが際立った。
作風として『アダムズ・アップル』を変化球とするなら、こちらはド直球。とりわけ後半部はエンタテインメント性豊かな冒険ドラマとしてストレートにハラハラドキドキを楽しめるだろう。
マッツ・ミケルセンが起こすもうひとつの「奇跡」をじっくり堪能していただきたい。
1966年生まれ。文筆家。映画、テレビ、舞台を中心に取材・執筆・編集活動、および音楽公演の企画、講演活動も行う。現在『キネマ旬報』にて映画音楽コラム『映画音楽を聴かない日なんてない』を隔号連載中。