特集・コラム
映画のとびら
2020年5月22日
マルモイ ことばあつめ|映画のとびら #058
日本統治時代の韓国で、辞書を編纂(へんさん)しようとした人々の尽力を笑いと涙の中につづった作品。題名の「マルモイ」とは「マル」=ことば、「モイ」=集める、から成る「辞典」の意の韓国語。映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』(2017)に続いてプロデューサーのパク・ウンギョン、脚本のオム・ユナ(本作では監督も兼任)、主演のユ・ヘジンの三者が再び顔を合わせた作品でもある。
物語の舞台は、朝鮮語の使用が厳しく制限された1941年、京城(現代のソウル)。映画館のもぎりの仕事で生計を立てていたキム・パンス(ユ・ヘジン)は、ある日、スリの片棒を担いだかどで、クビに。このままでは息子ドクジン(チョ・ヒョンド)が通う中学校の授業料が払えない。やむなくスリ仲間と組んで、たまたま海州から戻ってきたばかりの男のバッグを駅前で盗むのだが、これも失敗。さてどうしたものかと思案しているところへ降って湧いたのが、かつてのムショ仲間からの仕事の依頼。それは、朝鮮語学会が進めていた辞書編纂の手伝いだった。折しも、京城では日本による創氏改名まで進む圧政の真っ直中。このままでは自国語が失われてしまう。危機感を覚えた有志が集い、当局の目を逃れてひそかに独自の辞典を完成させようとしていたのである。早速、学会の隠れ家に出向いてみると、そこにいた人物こそ、パンスが駅で盗もうとしたバッグの持ち主にして、朝鮮語学会の代表リュ・ジョンファン(ユン・ゲサン)。バッグの中身は地方の協力者から集めてきた貴重な方言の原稿だったのだ。言い訳のきかない前科でにらまれている上に字も読めないパンスに与えられた条件は、1カ月で文字を習得すること。パンスは嫌々、読み書きを学び始めるのだったが、ほどなくしてことばの大切さ、楽しさに覚醒。純情一徹の明るい性格で職場を盛り上げる一方、ムショ仲間を動員しての方言収集までかなえ、ジョンファンの信頼も徐々に得ていく。そんな実りある日々も束の間、恐ろしい日本官憲の魔の手は着実に編纂チームに迫っていくのだった。
朝鮮語大辞典出版の経緯を描く物語で、1942年に勃発した朝鮮語学会事件(拘束されたふたりが拷問死)もにじませているが、恐らく登場人物と筋立ての大半はフィクションとして処理されている。史実を正確に再現するのではなく、史実に刻まれた情熱と精神を劇的に反映させようとした結果なのだろう。
おおむね、前半は喜劇調、日本官憲の手入れが本格化する後半はシリアスな空気に包まれるという構成。いずれも、ユ・ヘジン演じるパンスの立ち居振る舞いがそれを決定づけているが、テキ屋のように劇場でもぎりをやり、べらんめえ口調で啖呵(たんか)を切るあたりは、さしずめ車寅次郎=寅さんの風情か。学はないが情はたっぷり、品はないが熱意に事欠かない。庶民の代表としてパンスを前面に押し出し、辞典編纂の過程を楽しく見せようとする仕掛けは悪くなく、かの国の苦難の日々が無理なく入ってくる。
言語統制の問題は決して対岸の火事ではない。世界の歴史にたびたび見られた事態であり、わが国でもアイヌ民族や琉球王国が、中央政府からの標準語励行などでその憂き目に遭っている。主人公が文盲であることも簡単には見落とせない。今でこそ識字率が高い日本ではあるが、ひと昔前までは文字を判読できない人も多くいた。世界の端々にも同様の境遇を抱えている人間は現在も少なくない。ことばを知らなかった男がことばのよさを知り、ことばを守るために立ち上がる日本統治下の朝鮮の物語は、かの国の歴史をひもとくだけでなく、観客それぞれの足下を確認する機会も設けているといえる。
恐らくこれが長編映画デビュー作となる女性監督オム・ユナの演出は、情報を事細かに押し込む堅苦しさがなく、映像的にも中道を行くような見やすさを確保している。学会の前進をめぐるエピソードの折々にトランペットとギターを使ったマカロニ・ウェスタン調の音楽(作曲はこれまた『タクシー運転手』のチョ・ヨンウク)を配するなど、やや笑いの仕掛けに大仰なものを感じる向きもあるかもしれないが、韓国での大ヒットを思えば、それも功を奏した格好だろう。思い切り笑わせて、思い切り自己犠牲の涙をしぼり取る。そんな感情の振り幅の大きさ、激しさ。決して美形とはいいがたいユ・ヘジン、ハンサムなユン・ゲサンの容貌(ようぼう)の落差もまた、もしや振り幅の大きさを意図的に助長させた節があるかもしれない。
ことばをめぐるアイデンティティーの獲得と6年に及ぶ自由に向けての戦いは、人によってはバタくさく映るほどの仲間の友情、親子の絆の美しさへと描写を着地させていく。最後まで大衆的な見地を忘れなかったところに成功の鍵はあった。「がんばるお父さん」の誠実なる熱意にだれが抵抗できるというのか。完成する辞典に込められた思いを前に、もらい泣きを避けるのはちょっと難しい。
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タイトル | タクシー運転手 ~約束は海を越えて~ (原題:A Taxi Driver) |
製作年 | 2017年 |
製作国 | 韓国 |
上映時間 | 137分 |
監督 | チャン・フン |
出演 | ソン・ガンホ、トーマス・クレッチマン、ユ・へジン、リュ・ジュンヨル |
映画『マルモイ ことばあつめ』(2019)が生まれる礎(いしずえ)となったともいえる『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』(2017)は、史実を庶民の目から眺めたという点で共通している。具体的には、1980年に韓国は光州で起きた民主化運動の悲劇を追った作品で、その模様をスクープ取材したドイツ人記者をソウルから現地まで運んだタクシー運転手を主人公にした物語。主人公の運転手には『パラサイト 半地下の家族』(2019)のソン・ガンホが演じており、父親の手ひとつで幼子を育てているという設定。家賃の支払いまで滞るほどの経済的な逼迫(ひっぱく)具合まで『マルモイ ことばあつめ』の主人公パンスと似ている。歴史譚としても親子のドラマとしても感動的な美談として締めくくられており、興行的な手ごたえの大きさも含め、いい意味で二匹目のドジョウをつかまえることに成功した格好だ。
その『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』には、先述のとおり、パンス役のユ・ヘジンも顔を出している。役どころは光州のタクシー運転手ファン・テスル。本来は、テスルがドイツ人記者をソウルから運んでくるはずだったのだが、ソン・ガンホの運転手がこれを横取り。それでも、彼を責めることなく、むしろ協力を申し出て取材を成功させようと獅子奮迅。最後の最後まで、いい人ぶり爆発なのであった。その人情味あふれる存在感がオム・ユナの心に留まり、パンス役に自然とつながっていったのだろう。
辞書作りを描いた映画といえば、石井裕也監督の『舟を編む』(2013)がすぐに思い浮かぶだろう。本屋大賞を受賞した三浦しをんによる同名小説の映画化。辞書編集部に配属された青年の目から、辞書作りの苦労、醍醐味に加え、主人公の朴訥とした恋の行方などが静かに、しかし確かな感動をもってつづられていく。出演者に松田龍平、宮﨑あおい、オダギリジョー、黒木華、池脇千鶴、加藤剛など。「ことば」の大切さを認識させてくれる点で『マルモイ ことばあつめ』に通じる部分は少なくない。
1966年生まれ。文筆家。映画、テレビ、舞台を中心に取材・執筆・編集活動、および音楽公演の企画、講演活動も行う。現在『キネマ旬報』にて映画音楽コラム『映画音楽を聴かない日なんてない』を隔号連載中。
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