特集・コラム
映画のとびら
2020年9月7日
パヴァロッティ 太陽のテノール|映画のとびら #074
太陽のテノール
イタリア出身のオペラ歌手ルチアーノ・パヴァロッティ(1935-2007)の生涯を追ったドキュメンタリー。秘蔵アーカイヴ映像に加え、2017年4月からおよそ1年2カ月をかけて取材した関係者の新規インタビューも挿入。表舞台と私生活、その両面から歌手としての本質、人間としての個性を的確に見つめていく。監督を『コクーン』(1985)、『アポロ13』(1995)、『ビューティフル・マインド』(2001)、『ダ・ヴィンチ・コード』(2006)などのハリウッド製話題作で知られるロン・ハワードが務めた。ハワードにとっては『メイド・イン・アメリカ』(2013)、『ザ・ビートルズ EIGHT DAYS A WEEK-The Touring Years』(2016)に続く3本目のドキュメンタリー監督作品である。
導入部から、いきなり初出のホームビデオ映像が紹介される。1995年、パヴァロッティはアマゾン川をさかのぼって、オペラハウス「テアトロ・アマゾナス」を目指していた。パヴァロッティにとって憧れのテノール歌手エンリコ・カルーソーが何十年も前に歌った場所である。仕事ではなく、完全にプライベートの行動だった。なんとか中に入ると、パヴァロッティはステージに立ち、友人しかいない客席に向かって歌い始める。カルーソーはレコード開発直後から熱心に録音を繰り返した先駆的なオペラ歌手だった。その影を無邪気に追うパヴァロッティもまたオペラ劇場を飛び出し、何万人も集まる野外コンサートを行った改革者であり、ふたつの革命的な魂を重ねる演出に、早くも映画の志向性が明確に打ち出される。
タイトル後に登場するのは、水彩画を描いているパヴァロッティと、そこに重なる2番目の妻ニコレッタ・マントヴァーニによる「彼は思いつきで行動する」との証言。続いて「彼は心から人を信じる。性善説の人間。いつも楽しくご機嫌だった」と加えると、ニコレッタはベッドの上のパヴァロッティに質問も投げかける。「100年後に人の記憶に残りたい?」。パヴァロッティの答えは「人々にオペラを届けた男として思い出してほしい」。映画の終盤でもこの場面は繰り返される。いわば、最初に答えを示してから、その理由を追跡していくような構成であり、ある意味、作劇的な韻を踏む仕掛けとなっているともいえる。
たった5分間の、しかし十分な前置きをした映画は、次にパヴァロッティの生まれた時代へと時間を一気に引き戻す。第二次世界大戦の最中に生まれ、それを引きずっていること、パン職人でテノール歌手だった父親に感化されて地元モデナで歌手になったこと、母親が才能を買って歌手に専念させてくれたこと、前妻アドゥア・ヴェローニとの結婚、その後、妻の稼ぎに頼りながら5年弱で3人の娘を授かったこと、1963年にジュゼッペ・ディ・ステファノの代役で『ラ・ボエーム』のロドルフォ役の代役を務め有名になったことなどの履歴が、彼自身と家族、仕事仲間の証言によってテンポよくつむがれていく。
ハーバート・ブレスリン、ティボー・ルタスといった「興行の仕掛け人」たちによってオペラ以外の歌手活動を本格化させていったパヴァロッティは、CM、テレビ番組の出演やコンサート活動を活発化させ、西洋の歌劇団としては初の中国公演も成功。1990年7月7日にはプラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスと「3大テノール」を組んで爆発的な大衆認知を得た。一般にもパヴァロッティの名がとどろいたのは、この頃ではないか。やがて、ダイアナ妃との交流からチャリティーに目覚めると、「パヴァロッティ&フレンズ」と題した公演でスティング、ブライアン・アダムズ、ボン・ジョヴィらロックスターと共演。ボノが語るパヴァロッティから強引に依頼されたコンサートへの参加と新曲作曲のエピソードは実に楽しい。2005年のコンサート活動引退。ほどなく故郷に声楽アカデミーを設立し、後進の指導に当たった。
そんな歌手としてのパヴァロッティの側面を洗うだけでは一般観客の関心を募ることはできない。恐らくそれをよく知っている劇映画の人ロン・ハワードは、彼の私生活、素顔も可能な限り提示していく。とにかくモテた、らしい。ニコレッタ・マントヴァーニに略奪された形の前妻アドゥアなど登場するだけすごいことなのに「あの声に恋しない人なんている?」と言い切り、既婚のパヴァロッティと恋愛関係に陥った教え子のソプラノ歌手マデリン・レネまでもが「彼はモネッロ(ユーモアのある少年)。“教師も生徒も関係ない。出会いがあるだけ”と言われた」などと懐かしげに語る。娘のクリスティーナに「女性に甘やかされるのが好きだった」と断じられるあたりは草葉の陰でパヴァロッティも苦笑するほかないだろうが、ともすればだらしなく映るはずの女性関係が生臭いスキャンダル性を伴うことなく、むしろ微笑ましい逸話に転じているところは、やはり彼の人柄に負う部分が大きいか。楽天的な人、いつも笑っている人、という印象が強い。人懐っこく、いるだけで場を明るくする彼の個性は、その高音美声以上に天からの授かり物だったかもしれない。「太陽のテノール」とは、日本の映画会社もよくぞつけた副題である。
オペラに詳しくないロン・ハワードがイチから手がけただけあって、オペラに知識のない人でも安心して見られる仕上がり。また、ハリウッド大作の経験者だけあって、音響へのこだわりも映えた。クリス・ジェンキンスをリレコーディング(ダビング)技師に配して整理されたそれは、臨場感を備えながらも耳になじみやすく、オペラ歌手の記録映画にはこれ以上ない安定した響きを獲得している。
この作品を見れば、彼の歌声にもっと接したくなる。CDや配信で楽しみたくなる。その果てにオペラへの関心を募らせたとしたら、パヴァロッティ自身もきっと本懐を遂げた気分になるに違いない。
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1966年生まれ。文筆家。映画、テレビ、舞台を中心に取材・執筆・編集活動、および音楽公演の企画、講演活動も行う。現在『キネマ旬報』にて映画音楽コラム『映画音楽を聴かない日なんてない』を隔号連載中。