特集・コラム
映画のとびら
2021年1月15日
聖なる犯罪者|映画のとびら #097
ポーランドで実際に起きた事件をモデルに描かれるシリアスな人間ドラマ。神父になりすました少年院出の青年がとある小村で巻き起こす物議を追っていく。第22回ポーランド映画賞では11部門を制覇したほか、第92回米アカデミー賞では国際長編映画賞の候補となり、ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』(2019)と受賞を競った。監督は、これが長編第3作となるポーランドの新進監督ヤン・コマサ。日本では『リベリオン ワルシャワ大攻防戦』(2014)に続いて紹介される商業向け監督作品で、現在Netflixにて新作『ヘイター』(2020)が配信されている。
第2級殺人罪で少年院に入所中のダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)は、クスリも強盗も経験し、所内でもいじめに加担するなど、今も素行は決してよくない男。殺した男の兄が入所してくると、いよいよ嵐の予感が漂うが、その前になんとか仮退院が決まる。就職先は、国の反対側にあるという田舎町の製材所。入所中のミサなどで世話になったトマシュ神父(ルカース・シムラット)からは勇気づけの言葉をもらうが、逆にダニエルは「神学校に入りたい」と願望をもらす。もちろん、犯罪歴のある人間に入学は認められない。渋々、製材所に向かう途についたダニエルだったが、どうしても製材所に入ることはできず、たまたま目にとまった教会へと歩いていく。中に入ると、年の近い少女マルタ(エリーザ・リチェムブル)に、つい自分が司祭であるとウソをついてしまい、そのまま体調のよくないヴォイチェフ司祭の代理を担うことになる。その日から「トマシュ神父」と名乗ったダニエルは、悪くいえば行き当たりばったり、よくいえば体を張った説教をミサで披露するなどして、徐々に村人の関心を引いていくのだった。
序盤の物語だけ追っていくと、いわゆる「不良少年が反省の末、善人化していく」という定番の作品に映るかもしれないが、この映画の主人公(20歳という設定)はそんなに簡単に改心しない。いや、改心させない。尊敬する神父に悪事に手を染めないと約束したその舌の根が乾かぬうちに、酒場でクスリを決め、大酒を食らい、女性とも行きずりの関係を持つ。新しい就職先にも行かない。神父になりすましたあともタバコを飲み、アルコール類も遠ざけようとしない。ただ、なりすましたことで、自身と村人に微妙な変化を起こす。当初はウソがバレるのを恐れて逃げ出す考えもあったのだが、やがて逃げ出そうともしなくなる。
逃亡をやめたのは、とある交通事故の痕跡を村の中で見つけたためだろう。7人の死者に手向けられた路上の手づくり祭壇には、死者の写真が一枚、欠けていた。その謎を模索する中で、主人公は村人たちの「秘密」を知る。それは偽善であり、ウソでもあった。ウソを抱えた者同士の「対峙」はこの作品の大きな見どころのひとつである。ただし、他人のウソに向き合うことで、この主人公がすぐに村人たちに自身のウソについて「告解」をすることはない。追いつめられなければ、そのまま神父になりすまそうとする。果たして、それは主人公の信仰心がなせるわざなのだろうか。
恐らく、観客にとって、この映画の最大の謎は「なぜこの主人公は神父になりたかったのか」であろう。なぜ「神学校に入りたい」とまで語ったのか。わからない。単なる逃げ場にしたかったのか。「神の道」にひかれるものがあったのか。やはり、わからない。ただ、美声であった。賛美歌を歌う主人公の声の美しさはもしかしたら、この映画最大の「ホッとする瞬間」かもしれない。それ以外は、カオス(混乱)の中に物語が進められるといっていい。重ねて記す。少年が更生して村人を心の闇から解放する……そんなヤワで大団円的な構造をこの映画はあえて否定しているように見える。だから、観客に主人公への同情も容易にさせない。共感も許さない。その厳しさがずっと映像の中で貫かれている。その迫力、緊張感。
生臭いほどではないが、生々しい。人間考察も恐ろしく気取りがない。カトリック教徒が人口の9割を占めるというポーランドのお国柄もあるのだろう。こういう「なりすまし事件」は多発しているという。この物語のリアルはそんな東欧の国の風土も大きい。もちろん、実際の事件でもこの映画の物語においても、ウソはバレる運命にある。主人公の偽りが白日のもとにさらされるとき、いったい何が待っているのか。その瞬間を観客は固唾をのんで見守ることになる。アカデミー賞国際長編映画賞候補は、ダテではない。
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タイトル | 俺たちは天使じゃない (原題:We’re No Angels) |
製作年 | 1989年 |
製作国 | アメリカ |
上映時間 | 107分 |
監督 | ニール・ジョーダン |
出演 | ロバート・デ・ニーロ、ショーン・ペン、デミ・ムーア |
犯罪者が神父になりすます映画となれば、ロバート・デ・ニーロとショーン・ペンが共演した『俺たちは天使じゃない』(1989)を思い起こす人も多いはずだ。こちらはまったくの喜劇仕立て。監督は『狼の血族』(1984)、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(1994)のニール・ジョーダン。彼の監督歴を振り返っても『プランケット城への招待状』(1988)と並ぶ異色の喜劇といえる。
カナダの国境間近の刑務所から逃亡したふたりが、途中の村で高名な神父と間違われ、そのまま教会でもなりすまし生活を送るという展開。なんとか村のお祭りにまぎれて、カナダへ逃げ込もうとするふたりのドタバタがほのぼのと描かれ、最後まで肩のこらない笑いが楽しめる。
こちらの脱獄囚たちは基本的に人情味にあつく、優しい小悪党といった趣。ひとりは脱走に必死だが、もうひとりはどんどん教会の生活にハマっていく。デミ・ムーア演じる不幸な母親への同情も難しくなく、ハードな視点で描かれた『聖なる犯罪者』(2019)とセットで楽しむというのもアリかもしれない。
ちなみに、ニール・ジョーダン版『俺たちは天使じゃない』はリメイク作品。もとの映画は1955年、『カサブランカ』(1942)で有名なマイケル・カーティス監督がハンフリー・ボガートとピーター・ユスティノフに脱獄囚を演じさせた同名喜劇作品。ただし、こちらの脱獄囚は3人という設定で、しかも聖職者にはなりすまさない。さえない雑貨屋をなんとか救おうとする善人ぶりを題名でいう「天使」とたとえた次第。リメイク版の大胆な改変と見比べても面白いだろう。
やはり、脱獄囚が聖職者になりすます作品として、チャールズ・チャップリンの古典『偽牧師』(1923)なる短編映画もある。こちらは皮肉とスラップスティックなギャグがきいた名作だ。また、さえないクラブ歌手が修道院に逃げ込んで聖歌隊の一員となるにぎやか喜劇『天使にラブ・ソングを…』(1992)という変わり種もある。神の御許(みもと)ではどんな大騒ぎも許される様子。
1966年生まれ。文筆家。映画、テレビ、舞台を中心に取材・執筆・編集活動、および音楽公演の企画、講演活動も行う。現在『キネマ旬報』にて映画音楽コラム『映画音楽を聴かない日なんてない』を隔号連載中。
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