特集・コラム
映画のとびら
2021年3月12日
ビバリウム|映画のとびら #105
怪しい新興住宅地に迷い込んだ若いカップルの不条理で恐ろしい体験を描くサスペンス・スリラー。主演は『ソーシャル・ネットワーク』(2010)のジェシー・アイゼンバーグと『フライトナイト 恐怖の夜』(2014)、『マイ・ファニー・レディ』(2014)のイモージェン・プーツ。監督は、これが日本で初紹介となるアイルランド出身の新鋭ロルカン・フィネガン。第72回カンヌ映画祭では「批評家週間」に出品され、ギャン・ファンデーション賞を受賞。第52回シッチェス・カタロニア国際映画祭では最優秀女優賞(受賞者はイモージェン・プーツ)を受賞している。
小学校教師のジェマ(イモージェン・プーツ)は、私生活のパートナーである庭師のトム(ジェシー・アイゼンバーグ)とともに、ある日の放課後、一軒の不動産屋を訪ねた。彼らはかねてからマイホームを持つ夢を持っていたのだ。出迎えたのは、ちょっと風変わりなマーティン(ジョナサン・アリス)という男。彼はふたりに「ヨンダー」と呼ばれる郊外の新興住宅地を推薦し、やや強引に見学を促す。そこは、緑一色の二階建て一軒家が整然と建ち並ぶ閑静な場所。案内された「9番の家」には、なぜか男の子向けの子ども部屋がすでに設置されており、ベッドルームにはカップル用のパジャマまで置かれている。庭はすべて人工芝。なんだかすべてがウソくさく、作り物っぽい。妙な違和感にジェマがいぶかしがっていると、いつの間にか、マーティンの姿が消えている。彼の車もなかった。仕方がなく、帰路についたふたりだったが、どの道のどこを通っても、ヨンダーから出られない。それどころか、なぜかもとの「9番」の前に戻ってきてしまう。携帯電話も圏外のまま。翌朝、「9番」に泊まったふたりが屋根の上で目にしたのは、見渡す限りの「9番」と同じ家が続く街並み。いつの間にか玄関先には大きなダンボール箱が置かれていた。開けてみると、中には当座の食料と生活用品が詰まっている。いったいだれが何のために? いらだったトムは家に火を放つが、翌日には「9番」の家は焼け跡もなく元どおり。入り口に新しい荷物まで届いていた。ただし、今度の中身は男の子の赤ん坊だった。箱には「育てれば解放される」と書かれているのみ。その後、「9番」での生活を余儀なくされたジェマとトムは、想像を絶する速度で成長を遂げる赤ん坊の姿を目撃するのだった。
恐怖映画に近い味わいのスリラーである。とはいえ、流血場面など皆無に等しく、ショック描写を連発するようなこけおどし演出もない。面妖な怪物も幽霊も出ない。代わりに、精神的焦燥感を募らせる演出が冷徹なほど周到にめぐらされており、主人公カップルを巻き込む窮状が静かに、やがて強烈に迫ってくる。題名の「ビバリウム」とは、生物飼育用の観察容器の意。それがほのめかすとおり、カップルの奇妙な体験を客観的に見せようとする気配も少なくなく、その冷徹なタッチがまた心理的スリルに拍車をかけた。乾いた視点を持った不条理ファンタジーとでも形容するべきか。
冒頭、タイトルバックで意味ありげに流されるのはカッコウの「托卵(たくらん)」の映像。別の鳥の巣へ卵を産み付けられ、そこで先にかえったカッコウのヒナは、ほかの卵やヒナを巣から落とし、本当の親でもない親鳥からエサをもらって成長する。狡猾(こうかつ)とも、恐ろしいとも感じられる自然界の現象だが、これを念頭に置いたとき、この作品に侵略・陰謀SFのような内容、設定を連想する向きは多いかもしれない。主人公カップルが育てる赤ん坊こそ異星人ではないのか、という発想である。しかし、ここでは異星人の存在も予感も明示されず、安直にSFのカテゴリーに収めてしまうのはどうか。カッコウの映像をあえてミスリードとして解釈する選択も必要だろう。
宣材物には「極限のラビリンス・スリラー」とのキャッチコピーが採用されている。どこへ逃げても住宅街の中、どちらに向かって歩いても元の場所、という設定は確かに迷宮的といっていい。お話も、ちょっとめまいにも似た迷宮感覚に彩られている。ただし、そういった設定や展開自体は新しいわけでもなく、迷宮そのものを楽しむ作品でもない。
俗に言う「ゲイテッド・コミュニティー(Gated Community)」を扱った作品ともいえるだろう。周囲が閉ざされた画一的な生活環境の中で人間はどんな精神状態に陥るのか。それをSFやスリラーの範疇で語ろうとした寓話、とするのもたやすい。一方で「マイホーム所有をめぐる空虚な幻想」との旨を語る監督自身の発言によるならば、往年の名作テレビドラマ『トワイライトゾーン』(1959-1965)を想起する観客も多いだろう。同ドラマでは「とある欲求をめぐる強烈なしっぺ返し」という寓意が物語の基盤にあり、「ゾーン」へと取り込まれた、もしくは送り込まれた人々がそれを痛烈に体感するのである。ただ、それにしてはこの映画、知的な気取りが少なく、ブラックながら相応の娯楽性にも富んでいる。
娯楽ということでは、主人公カップルが暮らす「家」がある種の生物感を漂わせている部分に理由を探してもよく、時に自在に形状を変える描写においては「家もの」と呼ばれる恐怖映画の気分もあった。つまり、建築物が意思を秘めた物語ということだが、クライマックスではそんな断片がスリリングに顔を出す。藤子・F・不二雄の傑作SF短篇漫画『街がいた!!』(1980年発表)を引き合いに出してもいい。
低予算ながら、いや、低予算だからこその工夫を凝らした設定と表現があふれる同作品は、随所に作り手の上質なセンスがにじみ出て痛快この上ない。スティーヴン・キングが絶賛したとのことだが、型どおりのジャンル表現や物語に収まらず、それでいてどの方向にも舵を切ることができる小気味よさ、懐の深さを指してのことだろう。換言するなら、この映画自体が迷宮的な魅惑にあふれているということである。
ジェシー・アイゼンバーグは『嗤う分身』(2013)以降、不条理劇が似合って仕方がない俳優といってよく、ここでは一種のタイプキャスティングなのだが、ゆえにお話がどう転んでも安心して楽しめるといううまみも生んだ。彼の伴侶役イモージェン・プーツも奇妙な物語がなぜか似合う美人女優。彼女の魅力をまだよくわかっていない観客は、その個性を早めに自身の「家」に取り込んでおくべきだろう。
公式サイトはこちら
(C) 2004 by Paramount Pictures Corporation and DreamWorks L.L.C. All Rights Reserved.
タイトル | ステップフォード・ワイフ (原題:The Stepford Wives) |
製作年 | 2004年 |
製作国 | アメリカ |
上映時間 | 93分 |
監督 | フランク・オズ |
出演 | ニコール・キッドマン、マシュー・ブロデリック、ベッド・ミドラー、グレン・クローズ、クリストファー・ウォーケン、フェイス・ヒル |
そのものズバリ、カッコウの托卵をモチーフにした侵略SFといえば、ジョン・ウィンダム原作、ウルフ・リラ監督の『未知空間の恐怖・光る眼』(1960)である。とある村で女性が一斉に妊娠。生まれた子どもたちは全員、光る眼を持っていた、というお話。ジョン・カーペンター監督、クリストファー・リーヴ主演によるリメイク版『光る眼』(1995)もあり、どちらも独自の異星人SF風味があって面白い。
SFまがいの迷宮スリラーとなれば、ジョン・フランケンハイマー監督、ロック・ハドソン主演の『セコンド』(1966)をオススメしたい。第2の人生を送るために容姿を変えた男の悲劇だが、開放感が狂気へと転じ、やがて出口なしの絶望となる展開はすさまじく、ラストで呆然となること必至の傑作だ。
『セコンド』は「ゲイテッド・コミュニティー」というカテゴリーにおける傑作でもある。それ以外の同カテゴリーの作品としては、アイラ・レヴィン原作、ブライアン・フォーブス監督の『ステップフォード・ワイフ』(1975)を挙げなければならない。これにもリメイク版があり、フランク・オズ監督版『ステップフォード・ワイフ』(2004)は喜劇味が強くなっているが、ニコール・キッドマンによるヒロインの動向はなかなか興味深い。ピーター・ウィアー監督、ジム・キャリー主演の『トゥルーマン・ショー』(1998)も同系列の不条理SFと考えていい。
「家もの」映画といえば、ダン・カーティス監督の傑作ホラー『家』(1976)がある。スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』(1980)や大林宣彦監督の『HOUSE ハウス』(1977)なども建物、もしくは建物に巣くった魂が人間を鮮やかに惑わす異色作だ。
1966年生まれ。文筆家。映画、テレビ、舞台を中心に取材・執筆・編集活動、および音楽公演の企画、講演活動も行う。現在『キネマ旬報』にて映画音楽コラム『映画音楽を聴かない日なんてない』を隔号連載中。
music.jp(エンタメ総合配信サイト)で関連作品をチェック!