特集・コラム
映画のとびら
2021年7月9日
シャイニー・シュリンプス!愉快で愛しい仲間たち|映画のとびら #125
実在するゲイの水球チーム「シャイニー・シュリンプス」をモデルにした人情コメディー。ゲイゲームズ(LGBTQ+による世界最大のスポーツと文化の祭典)への出場をめざす彼らと臨時コーチの姿を笑いと涙の中につづっていく。監督は、実際に「シャイニー・シュリンプス」の一員でもあるセドリック・ル・ギャロと、コメディーの分野で活躍するマキシム・ゴヴァ―ル。
競泳の元オリンピック銀メダリストのマチアス(ニコラ・ゴブ)は、斜に構えた質問をぶつけてばかりのインタビュアーにブチギレ、うっかり同性愛者を傷つけるような差別発言をしてしまう。世界水泳への出場をかなえるためには、ゲイの水球チームのコーチに就任し、クロアチアで開催されるゲイゲームズへの出場をかなえること。それが唯一、彼に課せられた条件だった。その水球チーム「シャイニー・シュリンプス」を訪ねてみると、個性が豊かすぎるメンバーぞろいの弱小チームであることが判明。離婚の結果、娘の面倒も見なくてはならないマチアスにとって、このままでは自分の練習時間も満足にとれない。やる気のないマチアスに対し、チームの面々もどこか冷淡。そんな様子を見かねた娘の後押しが効き、チームとの関係は徐々に好転していくが、ひょんなことから水球の技術向上以上に悩ましい問題が発覚するのだった。
風変わりなメンバーぞろいのチームへ懲罰として着任する臨時コーチの物語といえば、知的障がい者によるバスケットボール映画『だれもが愛しいチャンピオン』(2018)を連想する向きもあるかもしれない。構造、設定的には確かに酷似している。しかし、それと同様の「スポ根もの」をこの水球映画に期待すると大きくアテが外れるだろう。なにしろ、実際の「シャイニー・シュリンプス」というのは、マスコミ向け資料によると「勝ち負けにはこだわらず、一緒にいることに楽しみを見出す、ゲイの水球同好会」であり、しかも「試合に出場して狙うは、“最優秀雰囲気”賞」とのこと。練習にも精を出すが、同様にコスチューム作りも日々、欠かしていないというわけである。したがって、映画も弱小チームがコーチの指導でメキメキと成長→最後は感動の大団円、のようなお決まりの道筋はたどらない。むしろ、同性愛者の奔放な精神を謳歌するような気分にあふれており、どこかのどかで享楽的な部分さえある。バスを借り切って移動する場面も多く、ロードムービーのような空気も感じられるだろう。その意味では、パトリック・スウェイジ、ウェズリー・スナイプス主演の『3人のエンジェル』(1995)、テレンス・スタンプ、ヒューゴ・ウィーヴィング、ガイ・ピアース共演の『プリシラ』(1994)あたりの作品に近いかもしれない。
実際の「シャイニー・シュリンプス」のメンバーが監督しているだけあって、ゲイの面々が放つ言葉もなかなか直截(ちょくせつ)的だったりする。仲の悪い同性愛者のチームに対しては「ハイエナ同然のレズ!」などと放言でピシャリ。「差別的じゃないか」とうろたえるコーチに「これはマイノリティーの特権」とまで言い切る。笑っていいのか、得心していいのか。そこからにじむユーモア、スリル。
水着もすごい。チーム名よろしく、ちょうど局部が位置するあたりにエビのイラストがそこだけ浮かび上がるように刻まれている。遠巻きに見ると、一瞬、そこだけ水着が破れているんじゃないかとの錯覚もあるのではないか。そういった「誤解」もあえて招いているような彼らなりの「ノリ」なのだが、やはり目立ってなんぼの意識が映えた。ちょっと自己中心的な部分も含めて、自由人としての真情を偽りなく描こうという意識があったのだろう。きれいごとで終わらない描写の数々はどこまでも潔く、頼もしい。
主人公マチアスに焦点を絞るなら、一種のシングルファーザー物語として読み解くこともできるだろうか。ゲイ集団の中にあってこそ人間的に開放される彼の姿は、もうひとつの大きな主題である。
公式サイトはこちら
1966年生まれ。文筆家。映画、テレビ、舞台を中心に取材・執筆・編集活動、および音楽公演の企画、講演活動も行う。現在『キネマ旬報』にて映画音楽コラム『映画音楽を聴かない日なんてない』を隔号連載中。