特集・コラム
映画のとびら
2021年11月19日
リトル・ガール|映画のとびら #151【ポスタープレゼント】
「自分は女の子」と訴える7歳のフランス人小学生を追ったドキュメンタリー。トランス・アイデンティティーをめぐる問題を家族の絆とともに鋭く、優しく見つめていく。監督は、ジェンダーやセクシュアリティーに材を得た作品を数多く撮り、少女ふたりの5年間の関係を追った記録映画『思春期 彼女たちの選択(別題:私たちの青春時代)』(2019)が日本で紹介されているセバスチャン・リフシッツ。
フランスはエーヌ県に住む小学生サシャが「女の子になりたい」「自分は女の子」と言い出したのは2歳を過ぎた頃。母のカリーヌは戸惑い、妊娠中に女の赤ん坊を望んだことがいけなかったのかと悩んだ。父はサシャの好きなように生きてほしいと願った。サシャの兄弟は変わりなくサシャに接した。しかし、世間の風は冷たく、サシャが通う学校はスカートの着用を、バレエ教室は女子用の練習着をつけることを禁じた。どちらも相談に応じない。やがて、パリのロベール・ドブレ小児病院に性別違和の子供を受け入れる部門があると知ったカリーヌは、サシャを連れて担当のバルジアキ医師に会いにいくのだった。
「トランスジェンダーのアイデンティティーは、肉体が成長する思春期ではなく幼少期で自覚される」という主題で取材を開始したセバスチャン・リフシッツの慧眼が映える作品だろう。多くの人は思春期、「性」を意識したことでトランスジェンダーが生まれるかのような誤解をしているかもしれない。しかし、実際には「恋愛対象」を持つ前の、ずっと幼少期から問題に直面している。出生時に「男性」と判別されていても、この映画の主人公サシャは物心がつく以前から「女性」を自認していた。それは病気でも欲望の結果でもない。最初から中身は「女性」だったのだ。いわば、彼女は「固定観念」を新たに破った存在だろう。サシャとその家族を映画の対象にした映画人たちは正確で新しい「常識」を我々に提示している。映画で描かれる現実にふれて、どこか蒙を啓かれた気分になる観客も多いのではないか。そう、これは常識を正す作品であり、古い因習にとらわれがちな我々へのさわやかなメッセージといっていい。問題提起はあるけれど、陰鬱な空気も押しつけがましさもない。むしろ後味はどこまでも温かく心地よい。
その感触を実現している具体的な要素として映像のあり方がある。フィックス(固定)映像がかなりの部分を占めており、記録映画にありがちな手持ちカメラによる粗い取材映像のたぐいは少ない。取材対象の人々がカメラに対して抵抗や羞恥(しゅうち)心を表情に浮かべることもない。まるで、彼らの隣に一緒に座っているかのような気分で観客は映像に接することができ、いつの間にか身近な日常として彼らの感情を共有している。記録映画と劇映画の狭間にある感触とするべきか。カメラアングルにも無理がなく、まるで劇映画のモンタージュを見るかのような気分がある。演出のうまさとする向きもいるだろう。芝居を要求しているのではないかと勘ぐる観客もいるかもしれない。創作のそれと見まがうばかりほどに、この映画の取材者たちは取材対象の日常に溶け込んでいる。はっきり言って、美しい。もはや、これは一編の静かな心のドラマ。音楽も劇映画のための響きのように映る。いい意味で記録映画のくさみが少ない。見やすい。
「性別を選べずに生まれただけ」。サシャの力になろうとする姉の言葉である。「サシャはみんなの意識を変えるために生きている。私はサシャを支えるのが使命」。こちらは母カリーナの言葉。サシャの兄弟たちは幼いなりに母の苦心をねぎらい、サシャと屈託なく冗談を飛ばし合う。父は父なりの理解で生きる。彼らとサシャは笑って過ごす。家族の絆の物語としても、見ごたえは大きい。
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1966年生まれ。文筆家。映画、テレビ、舞台を中心に取材・執筆・編集活動、および音楽公演の企画、講演活動も行う。現在『キネマ旬報』にて映画音楽コラム『映画音楽を聴かない日なんてない』を隔号連載中。
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<応募期間:
2021年11月19日(金)~30日(水)>
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