特集・コラム
映画のとびら
2022年9月30日
夜明けまでバス停で|映画のとびら #207
2020年11月16日未明、渋谷区幡ヶ谷のバス停でひとりのホームレス女性が撲殺された。60代も半ばを迎えていた女性は毎夜、このバス停を訪れては待合席に体を横たえ、朝を迎えていたという。彼女はなぜそのような生活を繰り返していたのか。どのような思いが彼女にはあったのだろうか。
実在の事件に触発されて生まれた高橋伴明監督作品『夜明けまでバス停で』(2022)は、コロナ禍のご時世をにらんだ問題意識の強い社会派作品であり、同時に現代人の心の機微をすくい上げた繊細なる人間ドラマだ。「問題意識」という点においては、伴明監督が「製作メモ」に明らかにしているとおり、行政、並びに現代世相への怒りが今回の動機となっている。人々を路頭に迷わせる政府が憎い。路頭に迷った人々に手を差し伸べられない環境が許せない。ひとつ間違えば、誰もが主人公のようになりうる。そんな現実感は、在宅医療の現在を見つめた前作『痛くない死に方』(2021)にもどこか通じるものだ。
コロナ禍の直前から物語は始まる。居酒屋でバイトをしながら、アクセサリー制作を続けていた三知子(板谷由夏)は、金銭的に裕福な暮らしではないものの、若き女性店長(大西礼芳)やバイト仲間(ルビーモレノ、片岡礼子、土居志央梨)と楽しい日々を送っていた。しかし、それもコロナ禍で一変。居酒屋は営業が停止し、店舗から借りていたアパートからは退去を余儀なくされ、もらえるはずの退職金は居酒屋のマネージャー(三浦貴大)が搾取してしまった。当てにしていた再就職先も突然、手の平を返し、田舎の弟に甘えようと思ったものの、弟は母親の介護の件で逆に金銭を要求してくる始末。心配する店長にはつい「大丈夫だから」と言ってしまい、気がつけば三知子はスーツケースを引いて路上をさまよっていた。
高橋伴明の問題意識に沿いながら作品に接するのが、まずは無難な鑑賞法だろう。実際、劇中には主人公への同情以前に、決して他人事ではない「実感」がにじむ。「そうなる前に何かできなかったのか」と責める前に、「自分が路上をさまようことになったらどうなるのか」という切迫感が襲う。主人公はバイト仲間のフィリピン人女性に店の残飯を分けようとするが、いつの間にか自分が料理屋の残飯置き場をまさぐっている。見ていて胸が痛い。めまいすら覚える。
高橋伴明の演出は実に無駄口の少ない手さばきで、怒りが前提にあっても、悲壮感を助長させるようなことはない。コロナ禍の暗黒をくどくど説明することもない。必要な描写を淡泊なほどに積み重ねていくだけ。結果、不思議なことに、というべきか、問題意識とは裏腹の、奇妙な軽快さも並行して感じられる構造を持っている。たた暗鬱な作品に終わっているわけではないのだ。安易なメロドラマに落とし込まない姿勢もさることながら、とりわけ物語の後半、主人公が路上生活仲間の老人・通称バクダン(柄本明)と起こす行動がなかなかのもの。伴明監督としては真っ当な感覚による展開かもしれないが、穏やかな現代人には恐らくちょっとばかり突飛。これを勇猛とするか、物騒と考えるかで大きく見方が変わるだろう。少なくとも、後者の意見においてはコメディーにすら作品の香りが転じる可能性がある。エンド・クレジット内で披露される「その後の事態」に関しても、怒りが真っ直ぐであるがゆえの笑いが生まれるかもしれない。
かつて社会への怒りを喜劇へ転じさせた粋な映画作家に森﨑東という巨人がいるが、高橋伴明のそれは無意識がなせる「怒喜劇」かもしれない。決して喜劇を意識しているわけではないからだ。映画『夜明けまでバス停で』を喜劇だと言い切ってしまうと、それこそ別の怒りを演出側から買うことになるだろう。もしコミカルに映る瞬間があるとするなら、それは巧まずしての喜劇。ただ、怒りが喜劇として伝わることは決して悪いことではない。それどころか、観客によっては怒りの理解、消化を助ける結果にもなるだろうし、ここでは作家としての懐がより深まって見える感触もある。
主人公を演じるのは『光の雨』(2001)以来、約20年ぶりの伴明監督作品への出演となった板谷由夏。彼女が放つ空気感も、個人的には深刻さからどこか遠い。逆に、そんな彼女だからこそ作り手の怒りが伝わるという向きもあるだろう。どちらにしても、伴明監督の術中にハマった格好である。
路上生活者が理由もなく殺されていいわけがない――。つまるところ、この作品における高橋伴明の「基本」はそこにあるとして疑いなく、だから思いきった描写をエンド・クレジットでぶつけてくる。若松孝二作品あたりを連想して快哉を叫ぶ者もいれば、アナーキストのようでやりすぎだといさめる観客もいるだろう。きっと、どちらも正解。もしや、そういう物議を醸すことこそが、この作品の生命線かもしれない。
高橋伴明は実話をなぞるだけの監督ではない。映画を武器にした活動家の側面も持つ。その心意気が楽しい。頼もしい。映画の闇が明けるまで、劇場の席で事の成り行きをじっと見守っていただきたい。
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1966年生まれ。文筆家。映画、テレビ、舞台を中心に取材・執筆・編集活動、および音楽公演の企画、講演活動も行う。現在『キネマ旬報』にて映画音楽コラム『映画音楽を聴かない日なんてない』を隔号連載中。