特集・コラム
映画のとびら
2020年1月10日
リチャード・ジュエル|映画のとびら #042
クリント・イーストウッドの監督第40作。前作『運び屋』(2019)に続く実話の映画化であり、ここでは監督業に専念して、「人間としての正義」の在り方を世に問うている。
1996年7月27日午前1時20分頃、オリンピック開催中の米ジョージア州アトランタで、爆弾テロが勃発した。センテニアル・オリンピック公園の屋外コンサート会場で起きたそれは、死者2人、負傷者111人を出す惨事になったが、爆弾に気づいたひとりの警備員の働きによって、被害が最小限に抑えられていたことが判明する。警備員の名はリチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)。一躍、時の人になった彼は、共に暮らす母親(キャシー・ベイツ)とともに、職務を堅実に果たしたことにささやかな誇りと喜びを感じることに。一方、プロファイリング重視の捜査をしていたFBIは、現場検証もそこそこに、犯人像がジュエルに重なると判断。さらに、捜査の初期段階にもかかわらず、捜査官ジョン・ハム(トム・ショウ)が野心的な女性新聞記者キャシー・スラッグス(オリビア・ワイルド)にその「見解」を漏らしてしまう。事件からわずか3日後、一転して事件の容疑者に祭り上げられてしまったジュエルは、旧知の弁護士ワトソン・ブライアント(サム・ロックウェル)に助けを求めるのだった。
日本では「その日、全国民が敵になった」とのセンセーショナルな宣伝惹句(じゃっく)が踊り、どこかスリリングでサスペンスフルな陰謀劇のように映るかもしれないが、これは実に腰の据わった冤罪(えんざい)ものであり、被害者となった男とその家族の苦難が色濃く浮かび上がる人間ドラマである。イーストウッド自身が「リチャードの名誉を挽回するために、この映画を作りたかった」と語るとおり、あくまでジュエル潔白の側に立った物語。実際、事件から6年後、エリック・ルドルフという真犯人が逮捕されており、その意味では事件の結末よりも、そのプロセスを目撃するべき作品としていい。
社会性という面では、マスコミ報道に世論があっという間になびく描写に、非常にわかりやすい今日性がある。判断材料が少ない中、歪曲した意見が束になって当事者に跳ね返ってくる恐怖は、24年前も現代もさして変わらない。SNSによる個人発信が当然となっている現代の方が、より危険性が大きいだろうか。リチャード・ジュエルの物語は決して他人事ではない。
いくら善人でも、たたけばほこりが出る。隙があらわになる。ジュエルの場合、法執行官への憧れが強く、具体的には警察官になって人々を守ることが人生の夢だった。その思いが銃を所持する甘えを自身に許し、警官のフリをした過去まで暴かれる。揚げ句に、税金を払っていない時期まであったことが露見。爆破現場から、爆発物のかけらを記念品として持ち帰っていたことも裏目に出た。結果、純真無垢な英雄の行動は、88日間に及ぶFBIの取り調べ、マスコミからの追及を招くことになる。ある意味、いい人だったことが招いた事態だったともいえ、八方ふさがりになっていく主人公の窮地に寒気を覚える観客も多いだろう。
善人にも善人なりの業(ごう)がある。FBI捜査官の情報漏洩も、新聞記者の先走り報道も、実のところ人間的な虚栄心から生まれたものであり、業という点では主人公と変わらないのかもしれない。となれば、熱にうなされた世論=大衆が最大の悪なのか。物語の行方を占いつつ、さまざまな思案がめぐる面白さ。
そんな現代性の一方で、演出自体はひどくオーソドックスであり、その落ち着きのある語り口こそ、実はこの作品、最大の見どころとするのは暴論だろうか。総尺131分のうち、事件が起きるまでに要する時間は38分。その後、英雄視される最初の3日間から転落する展開にドラマの大半が割かれ、ある意味、あっけないほどに解決のときが訪れる。細かいショットを重ねて、いたずらに目前のサスペンスをあおるような仕掛けは、どの場面においてもない。娯楽性に富んだ山場が用意されるわけでもない。主人公母子を見つめる演出の目は、あくまで優しく、最後まで度量とゆとりに満ちる。小舟で急流を行くというより、大海を大船で渡るという感触とするべきか。映画に身を委ねる喜び、心地よさ、それがこの作品にはある。ジタバタ、あくせくしてどうする。そんな声が聞こえてくるようなベテランの奥義だろう。
映画の終幕に刻まれるジュエルの「その後」は切ない。先述したイーストウッドの発言も、そんな英雄の末期を思えば、より意味が深くなる。映画界きっての名匠は、またひとつ、鮮やかな事実の刻印を遺した。
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タイトル | ハドソン川の奇跡 (原題:Sully) |
製作年 | 2016年 |
製作国 | アメリカ |
上映時間 | 96分 |
監督 | クリント・イーストウッド |
出演 | トム・ハンクス、アーロン・エッカート、ローラ・リニー |
ここ10数年、クリント・イーストウッドのフィルモグラフィーを眺めると、実話の映画化が多いことがだれの目にも明らかである。
古くは、チャーリー・パーカーの半生を描いた『バード』(1988)や、映画監督ジョン・ヒューストンをモデルにした『ホワイトハンター ブラックハート』(1990)がその端緒といえるだろうか。その後、21世紀に入ると硫黄島の激戦を日米双方から見つめた『父親たちの星条旗』(2006)、『硫黄島からの手紙』(2006)があり、その2年後には南アフリカ大統領ネルソン・マンデラを追った『インビクタス 負けざる者たち』(2008)を製作。『ヒアアフター』(2010)を発表後はFBI長官フーバーを描く『J・エドガー』(2011)、60年代に誕生したヴォーカルグループを見つめた『ジャージー・ボーイズ』(2014)、米海軍の狙撃手の人生を刻む『アメリカン・スナイパー』(2014)、航空事故の逸話もの『ハドソン川の奇跡』(2016)、フランスで起きた列車テロを当事者の出演で再現した『15時17分、パリ行き』(2018)、老いた麻薬の運び人を快活に描写する『運び屋』(2018)、そして『リチャード・ジュエル』(2019)と、連打のように実話を題材に求めている。
虚構の中から人間の真実を汲み上げてきた才人は、この老境に至り、実話の中に新たな「真実」の発見を試みようとしているのだろうか。
面白いのは『ホワイトハンター ブラックハート』と『運び屋』を除き、その大半で自身が俳優として顔を出すことなく、監督業に専念していることだろう。クリント・イーストウッドという俳優の巨大な存在感、人間としてのアクをだれよりも理解しているのはイーストウッド自身である。よほどの理由がないかぎり、描くべき「真実」を前に余計な異物を紛れ込ませたくない。そんな演出家としての平衡感覚が貫かれているのは見事であり、今なお第一線の映画監督として君臨している所以(ゆえん)でもあるだろう。
1966年生まれ。文筆家。映画、テレビ、舞台を中心に取材・執筆・編集活動、および音楽公演の企画、講演活動も行う。現在『キネマ旬報』にて映画音楽コラム『映画音楽を聴かない日なんてない』を隔号連載中。
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バード / 父親たちの星条旗 / 硫黄島からの手紙 /
インビクタス 負けざる者たち / ヒアアフター / アメリカン・スナイパー /
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