特集・コラム
映画のとびら
2020年9月4日
行き止まりの世界に生まれて|映画のとびら #073
イリノイ州ロックフォードのさびれた田舎町を舞台に、スケートボードで結ばれた少年たちの12年に及ぶ人生を追いかけた記録映画。第91回アカデミー賞で長編ドキュメンタリー賞、第71回エミー賞ではドキュメンタリー&ノンフィクション特別番組賞の候補に挙がった。映画とテレビ、両賞の対象になるという世にも奇妙な状況は、恐らくHulu製作作品という背景があるからだろうが、同時にそれだけ見ごたえのある作品に仕上がっているということでもある。監督は、少年たちと同じくロックフォードで思春期を過ごした中国系アメリカ人のビン・リューが務めている。
アメリカの経済誌『フォーブス』が2013年に発表した統計で、「全米で最もみじめな都市ランキング」で3位に位置づけされているロックフォードの街は、主要産業である製造業の不振により、長く閉塞感が漂っていた。その街でビン・リューがカメラの対象に選んだのが、ロックフォードに住むアフリカ系アメリカ人の少年キアーと、今まさに父親になろうとしている若き白人男性のザックというふたりの男。かつてロックフォードに住んでいたビンはスケートボードを通じて彼らと顔見知りであった。母親とふたり暮らしのキアーは早くに自分の前から消えた父親に対してコンプレックスを抱いている。一方のザックは恋人ニナとの間に息子エリオットができたものの、子育てをめぐって意見は対立。それぞれ「出口」を模索するふたりの姿を追ううちに、やがてビンは自身の複雑な家庭環境も映画に刻むことを決意するのだった。
スケートボードを扱ったドキュメンタリーとなると、最近では第92回アカデミー賞で短編ドキュメンタリー部門を制した『スケボーが私を変える アフガニスタン 少女たちの挑戦』(2019/イギリス製作)なる小品が思い出される。スケボーの授業(スケーティスタン)を通して前向きな人生を学んでいく貧困家庭の少女たちの姿を活写した作品で、爆弾テロや少女誘拐が頻発する過酷な環境は無論、ロックフォードの「行き止まり」とは比較にならない。とはいえ、スケートボードが登場人物たちに生きる希望を託していること、単なる遊戯を超えて生活の苦痛をやわらげる道具になっていることでは共通する。抑圧された環境下では、スケボーがどれほど少年少女の心の支えになっているのか。
ロックフォードの少年たちの場合、スケートボードは友情を育む道具にもなっており、そこで生まれた関係性がやがて一本の記録映画につながっていった次第。それぞれの個人的な悩み、各家庭の傷を対象に描いているところに視点の特徴があり、一部ビンをめぐって深刻な問題が露呈する瞬間があっても、総じて恨み辛みを声高に叫ぶことはない。そこからにじむリラックス感、題材の身近さが作品としての身上だろうか。たとえば、ここには麻薬にまみれたり、抗争に巻き込まれて命を落としたりするような少年は出てこない。閉塞感はあっても、目を覆うような悲劇は起きず、その意味では都会のスラム街を舞台にしたそれとは決定的に空気感が異なる。当たり前のことを当たり前に悩む人々の物語なのだ。ドキュメンタリーでありながら、一編の青春映画を見ているような感覚を抱く観客も多いのではないだろうか。弱さを抱えた人々が最終的になんとか自分を取り戻していく姿は、どこかさわやかだったりもする。
構成としては、少年時代の過去映像で郷愁をまぶしつつ、そこに新規取材映像で現実問題を直視させる仕掛け。映像的に特別な技巧はほとんど凝らされていないものの、カットが間延びすることも、余計なメッセージ性に溺れることもない。非常に素直な手さばきが全体的に行き渡っており、等身大の作品といってもいい。そんな「気取り」のない姿勢が賞レースでの高い評価をもたらした部分はあるのではないだろうか。
ポスター、チラシには「オバマ前大統領が『年間ベストムービー』に選出!」などという宣伝コピーが踊っているが、そもそもそのオバマが大統領の任期中にロックフォードはさびれていったとしていい。彼らは元大統領の讃辞をどう受け取ったのだろう。そんなことなどを考えるのも一興の佳作である。
公式サイトはこちら
1966年生まれ。文筆家。映画、テレビ、舞台を中心に取材・執筆・編集活動、および音楽公演の企画、講演活動も行う。現在『キネマ旬報』にて映画音楽コラム『映画音楽を聴かない日なんてない』を隔号連載中。